いきいきへの手紙

いきいきへの手紙

手紙。想いを言葉にし、誰かに伝えようと文字を書く。そして、人から人へと言葉が渡る。音楽や絵を生み出し届けるわけではない私たちが、誰かに手渡せるものがあるとすれば、それは想い、言葉です。できれば、そのことが人生によりよい何かをもたらせるようにと願いながら、生きていきたいと思います。一人ひとり異なる者ど同じ時代を生きています。
「ありがとう」と言えるように、言われることをしたいと心から思います。 片寄斗史子

定年、老後。
一人ひとり違うのですね。

K・Mさん

今までに3回の転勤を経験してきました。主人の定年が人生の転換期になることは十分覚悟し、心の準備もしていました。実際に迎えてみると予想していたようにはうよくいきよせんでした。3人の子どもらを7年暮らした東京に残したまま、私たち夫婦は故郷へ戻って暮らす予定だったのです。

定年になったその日から、今後の道を決める大事なことが次から次へとやってきました。それらを迎える体力が主人にはなかったのです。主人は引越しには馴れているはずなのに頭が真っ臼。会社の契約が切れたため借家を立ち退かねばならず、子どもらと私たち夫婦の引越しの準備もしなければなりません。
主人を叱叱激励していいものか迷いながらもイライラが募り 私ってこんなイヤな性格だったかしらと自己嫌悪に陥りました。 決めていかなければならないことが多くて、温泉に出かけるような時間はないし、ましてや海外旅行などまったく行けません。それどころか、病の進んだ主人は一人になるのを不安がり 私は友人とゆっくり時間もとれませんでした。すべて、故郷に落ち着いてからと、まずは引越しのことしか考えられませんでした。その後、引越しは無事終わり 主人は家でのんびり過ごしています。短い期間にいろいろいろ決断しなけれぽいけなかったのが、主人にとっては少し苦痛だったのだろうと思えるようになりました。これまで機会あるごとに、これからは長い長い時間が手に入ることを教えられ、老後の準備について考えてきたつもりでした。ですが老後を迎えた人たちと一まとまりで考えることが間違っていたのかもしれません。

同じ年代の方々でも、個人によってその受けとめかた、感じかた、経済力は違います。生活を共にする私と主人でさえ、すでにまったく違うのです。定年は自分というものをしっかり見つめ直させるものでした。老人こそ、個人ととして自立を求められる存在かもしれない」と今思っています。

父の看病、
残るは後悔ばかり。

A・Oさん

父を亡くした私は健康うつの初期症状に、ぴったり。辛くて苦しいのに、人前では(たとえ夫でも)元気を装ってしまい、悲しみを忘れようとしているのですが、突然、ふと父の入院中や自宅介護中の様々な場面が思い出され、泣けてくるのです。
私の父はアルツハイマー病でした。
公務員だった父はきれい好きで、几帳面。手先が器用で、生き物を愛し、特に蘭の花は花屋さんが驚くほどの腕前で、部屋中に咲かせていました。最善の治療を選択してきた結果、5年近い闘病生活で、老人保健施設、精神 病院、内科病院を合計8か所、入退院させました。それまで丈夫だった父ですが、肺炎を繰り返し、抗生剤を使いすぎて、皮膚の難病「水庖性類天ぼうそう」を併発し、見ているのがかわいそうなからだになってしまいました。 いろんな医者や、看護婦(さんはつけたくない)の心ない言葉や、対応。治療とはいえ、手足を拘束された父の姿を思い出し、悔やんでも詫びても、申し訳なくて涙が止まりません。

友人、知人は私の13年に及ぶ両親の世話を見ているので「悔いることはないでしょう。これから自分の人生を楽しんで」と言ってくれますが、悔いても悔やみきれません。父の人生すべてを否定してしまうような態度をとった看護婦に、父に代わって言い返せなかった自分が情けないのです。最後にお世話になった国立病院だけは、父に人間としての尊厳をとりもどした看護をしていただき、感謝しています。父の入院生活は、結局3年間におよび、その間ほぼ毎日、私は姉と交替で、父の元へ通っていました。
最後に父は脳梗塞をもよおし、声を聞くこともできませんでしたが、亡くなる1か月前に「よかった・・・・・・」と小さい声で一言、言ってくれました。それがどういう意味だったのか、確かめるすべもなく ただ悲しいばかりです。少し病態が変だなと感じたときに、これから先、どうしてほしいのか父と話しあっておくべきでした。

私には息子が2人いますが、心優しい子たちですので、私と同じ悲しい思かはさせたくありません。万一、私が倒れたときのことについては常々話しています。老後についても、書き残しておく準備をしています。

盲導犬になれなかったボビー、
元気ですか。

S・Yさん

ラブラドール・レトリバーのあなたが、バスタオルにくるまれて我が家にやってきた日のことを、私は昨日のことのように鮮明に覚えています。今は栃木の新しいお母さんのもとで幸せな日々を過ごしていることでしょう。我が家にいたころはやんちゃ盛りだったあなたも、もうすぐ4歳になるのだから、すっかり落ち着いてきたことでしょうね。4年前、私たちは家族をあげてパピーウォーカー(盲導犬の里親)をしていました。盲導犬を希望している方が2万人もいらっしゃるのに、亡日導犬はたったの800頭、とお聞きし、何か少しでもお役に立ちたいと思ったからです。ご主人様にしたがって、けなげに一生懸命働く そんな盲導犬を育てたいと、盲導犬協会に登録しました。

協会からの連絡を受けて、夫と茅ケ崎の訓練所まで迎えに行きました。そうしてお引き受けしたのが、ボビーでした。はじめは可愛さより責任の重さのほうが強く不安もありましたが、盲導犬の訓練士さんから、「何より人間好きの犬 に育ててほしい」と言われ、それなら大丈夫」少しホッとしました。

私たちがボビーと一緒にいられるのは、1年後の盲導犬の試験のときまでと決められています。だから、我が家にいる1年間にたくさんの楽しい思い出をつくってあげたかった。
ボビーは野山を駆け回り 川にジャブジャブ入り砂浜で波とたわむれよした。散歩には必ず人の集まる公園に寄りました。また犬友だちもたくさんできました。柵付きの広場にほかの犬と一緒に放してあげるとコロコロ駆けずり回り お互いにじやれあったりしてとても嬉しそうで、それを見ている私たちも気持ちが和んだりしたものでした。 半年くらいまで、ボビーは人間の幼児とまったく一緒で、起きている間中じっとしていることはありません。ちょっと日を離すと、さっと玄関に走り革靴を食べるように噛んだり、紐を切ってしまったり。風呂場から石鹸をくわえてきたり ティッシュの箱から紙を次々引き出してみたり。このやんちゃで小さな生きものが、ただただ無条件にいとおしいのでした。

月に1回、盲導犬の候補犬がたくさん集まって、しつけの成果を訓練所で発表します。初めてボビーを連れて行ったときは、「ちゃんとできますように」と祈るばかりでした。でも、半年ほど経つと、幼児的ないたずらもだんだん少な くなり 新しいことを次々覚えて、いろいろな誘惑心にも動じなくなりました。 そして1年後。ボビーは盲導犬になるための試験を受けに、私たちが初めて出会った訓練所に帰っていきました。「涙の別れは、犬を不安がらせますよ」と訓練士さんにも言われていましたので、前の晩には赤飯を炊いて、「元気でいっていらっしゃい」とお別れ会をしました。

訓練士さんは私から綱を受け取ると、建物の中ヘボビーと消えていきました。ボビーは私たちが後ろから付いてくるものだと思っていたのかもしれません。
最後に見たあの後ろ姿を「今も忘れていないよ」と、ボビーに伝えられるものなら伝えたいと思うのです。ボビーの思い出がつ土った1冊のアルバム。私たちが知っているボビーの癖や可愛らしかった動作の一つひとつを、今も懐かしく切なく思い出しながら眺めます。